ショートショートの披露場

短い小説を書いています

仕事

その男は片側2車線の県道沿いにいた。
桜の見頃を迎えるこの時期らしく、午前中からとても暖かい。これくらいなら上着はいらないと思われるが、男の傍らには薄手のジャケットが置かれていた。
「夕暮れ時は意外と冷えますからね。念のため、持ってきてるんです」
この道10年目になるという男は、柔和な表情でそう語った。
『看板を持って1日中立っている』それがこの男の仕事だった。屋根のない場所にずっと立っているのは、とても重労働だ。冷たい雨や風に吹き晒らしの状態でいるのは相当な忍耐力と根気がいる。
「精神論だけではやっていけませんよ。こうして雨風を一切通さない、防水防塵の作業者は必須です。寒くなってきたら厚手の肌着やセーターとかを何枚も着込みます」
なるほど、何年も積み重ねてきた経験から、男の中にノウハウが出来上がっているらしい。今でこそ頼れる男だが、これまでの人生は波乱万丈だった。
2050年ニホンの貧民街で男は産まれた。2045年に起こると予想されていたシンギュラリティも結局起こらず、世界がきれいに富裕層と貧困層に二極化された時代だった。生まれた層によって、その後の一生が既に決められていた。もう少し前の時代の資産家や権力者たちが、そうなるように取り組んだのだ。
マイナスからの人生となった男の目は、そんな時代に放り込まれてもなお、死んでいなかった。
「違う世界を見てみたかったんですよ。僕の生まれたああいう世界ではない世界を」
男の元いた世界では犯罪はあってあたりまえだった。腹が減れば、それが人の家でも実のなる木を枝ごと持って帰ってきたり、寒くて服が欲しいときは不用心に屋外に干してある服を盗んだ。
「でもそれっていけないことだと思うんです。強引すぎるというか、もっと他に人を傷つけない方法ってないのかなって」
理想を求めて各地を転々とした。いろんな土地でいろんな人と出会っていく中で、男の中に変化が生まれた。
「世界って広いんだなあって思いました。そう上、人が多い。これ、全員は救えないかもって心が折れたんです」
世界人口約200億人。富裕層と貧困層それぞれおよそ100億人だ。人間1人ではどうにもできない数だろう。そこで男は考えを改めた。
「全員は無理だけど、自分の周りにいる人だけでもなんとかできないかと思ったんです」
己の限界を知り、辛酸を舐めても、まだ心の炎は消えていなかった。
学もない、経験もない、貧民街の生まれという多大なハンデを背負っても、男はまた立ち上がった。ひたすら自分の足で歩き、できることを探し回った。その道中、ある人物と出会う。
「信号待ちをしている時でした。後ろから声をかけられたんです」
相手は住宅メーカーの支店長を任されている男だった。その支店長は男にこう言った。
「その服、貸せよ。靴の泥落とすから」
支店長は一目で男が貧民街出身と分かったのだろう。それで、典型的な富裕層の態度を取ったのだ。それでも男は、自分にできることならと着ていた服を渡した。そして、支店長が靴を綺麗にしたのを見てから、仕事をくださいと頼みこんだ。すると、
「はい?お前のような奴にやる仕事なんか……いや、待てよ……。そうだ、ちょうどいいのがある」
そう言って男が任されたのが、この看板持ちの仕事だ。
支店長の勤める住宅メーカーが作った住宅展示場は、県道から少し離れた場所にある。支店長曰く、いくらいいモノやサービスを作っても、その存在を知らないと手に取ってもらえないという。
「ましてや、うちの展示場は立地が悪いので、他よりも不利なんですよ」
一人でも多くの人に知ってもらえるよう、テレビやネットにCMを出したり、ホームページに詳細な地図も載せているという。
「打てる手は全部打ちますよ」
デジタルな広報活動だけでは足りず、他にも何かできないと考えを巡られている時に、偶然男と出会った。
「最初は、なんであいつらの方から話しかけてくるんだって腹が立ったんですけど、パッとひらめいたんですよ!こいつらを使えばいいんだって」
その後、男に周辺地図を覚えてもらい、展示場の場所を訊いてきた人には案内をし、基本的には看板を持って、目立つところに立っていてもらった。すると、ぽつぽつと客足が伸びたという。
男は支店長に褒められた。ようやく人助けができたと涙を流した。男がやっと見つけた居場所でもある。離すもんかと必死で看板を持ち続けた。そんな男の熱意に支店長も応えたくなったのだろうか。
「おい、目立つように派手な色の服着とけ。それとこれ、着られなくなった服まとめといたやつ、廃品回収に出しといて」
それらを男は支店長からの厚意と受け取り、ゴミ袋にまとめられた服は毎日大切に着回し、集積所から派手な色の服だけを盗んで着るようになった。そして数年が経ち、現在。
あの男のいた場所には、1枚の看板と1体の案山子が立っていた。それは、とても穏やかな表情の案山子だった。



この物語はフィクションです。