ショートショートの披露場

短い小説を書いています

人生の最高の終わり方

親が目の前で死んでくれることでどれだけ救われるか。この安心に近い感情を理解したがらない人間がいるとしたら、その方はかなり過去に生きているのでしょうね。
常識や当たり前や価値観というものは時代や環境によって変わるものだから、別に否定はしませんけど、今の時代とは合わないと思います。
昔は親の死に目に会えないことも少なくなかったり、きちんと別れの挨拶ができなかったりしたそうだけど、今はもうほとんどそんな悲劇は起こらなくなった。だって……
「ちょっと邦明、聞いてるの?」
「ん?ああ、聞いてるよ」
「じゃあ、私は今なんて言った?」
「ええっと、浮気とか亜里沙を悲しませるようなことはするなって」
母の表情が固まってしまった。どう取り繕おうかとあたふたしていると、妻の亜里沙にたしなめられた。
「もうしっかり聞いててよ、お義母さんの大切な遺言なんだから」
「ごめんごめん」
遺言は文書で、という習慣もなくなった。パソコンで書けば本人が書いたのか判別できないし、手書きでも偽造の可能性がわずかに残るし、それに複数の遺言書が見つかったらどっちが新しいかでも揉める。こういったトラブルが回避できるという意味でも、あの法律には本当に感謝している。
「いい?邦明からも知花を説得してちょうだい。子を持てって」
「子供のことか。だってよ、姉さん」
「はいはい、分かってますよ」
姉さんは、それに夫の篤義兄さんも、別に子供は欲しくないそうだ。でも、面と向かって母に言うと喧嘩になりそうなので、言わないようにしているらしい。
「仕事が忙しくてなかなか時間作れないの」
「休みもらえないの?あなたの会社、ちゃんと法律守ってる?」
「違法なことはやってません。ただ手掛けてる事業がどれも好調だから忙しいだけ」
「あらそう。篤くんはどうなの?」
「うちはそれほどでもないんですけど、中間管理職なもんで、上と下からの圧がすごくて、精神的に参っちゃいますよ」
「そうなの。大変ねえ」
「昼休憩の時にでも抜け出して、知花の会社へ行ってこっそり誰もいない会議室で……」
「やだもう!そんな恥ずかしいこと絶対しないでよ」
篤義兄さんも上手い。あまりしたくない会話を自然な形で後味を悪くせずに終わらせた。時間も迫ってきているし、拓海との会話の時間を多く残そうとしてくれたのかもしれない。仕事も気配りもできて尊敬する。姉さんは本当にいい人に出会えたね。
「拓海、来てくれてありがとね。今日は平日だし、部活もあったでしょ。悪かったねえ」
「気にしすぎだよ、ばあちゃん。今日はばあちゃんの命日になるんだから、来ないわけにはいかないよ」
「まあ!嬉しい!拓海は本当に優しいねえ。亜里沙さんの育て方がいいからかしら」
「いやいや、お義母さんに似たからだと思いますよ?」
終始和やかな雰囲気で病室は満たされた。少しだけ寂しさも感じられるが――たぶん亜里沙は必死にこらえているかもしれない――でもずっと前から決まっていることだし、心の準備をする時間があったから、これだけ穏やかでいられるんだろうな。
ドアを2回叩く音がして、神妙な顔をした医師と看護師が入ってきた。
「そろそろお時間です」
もうそんな時間か。結構あっという間だった。
「遺言は済みましたか?」
医師の質問に母は、はいとしっかり答えた。続けて医師は母と、それから僕ら家族全員に、最後の挨拶も済んだか尋ね、みんな、はいと答えた。
全員の意思を確認したところで、医師は母に投薬処置を始めた。
国家維持法の施行により、人間は70歳の誕生日を迎えてから71歳の誕生日が来るまでの間に死ななければいけなくなった。当初は反発も大きかったが、時が経つにつれて国民一人一人の幸福度がどんどん上昇していった。経済が正しく回ったことで、ほとんどの国民が物質的にも心理的にもそれぞれ欲しいものが手に入るようになり、国全体が豊かになった。高待遇の仕事、面倒な家事の外注、エンタメの充実、行政支援など。
一世帯資産限度額の制度化によって経済格差を是正しただけでも幸福度は上がったが、高い水準で幸福度を保つ要因になっているのは寿命の制定の方だ。
人の命は70年。そう決めたことで人間は死に方を選べるようになった。今までは生き方にばかり意識を向けて、1人でも多くの人間が少しでも多くの選択肢を持って、人間に生まれてよかったと思えるようにそれぞれが努力を重ねてきた。
だが、それだけでは幸福度の上昇に限界があることに人々は気づき始めた。いろんな仕事があって、その仕事に就くための学校もあって、娯楽だって数えきれないほどある。世界中どこへ行っても最低限の生活ができるレベルのインフラは整っていて、その維持にも問題がない。
人間は欲深いから、もう少し、まだ何か最上の幸福に近づく方法はないかと探した。そして、ある1つのテーマに着目した。死、だ。
それまでの人間は事件や事故に巻き込まれて突然死ぬか、介護や闘病が必要になり、永遠とも感じる長い時間をかけてじっくりと苦しみながら死ぬのがほとんどだった。
特に後者は当人だけでなく、周りの人間にも多大な負担が重くのしかかっていた。大切な人が目の前で苦しんでいるのに、自分は何もしてあげられない、変わってあげられない。その心理的な負担は計り知れない。外部の力を借りられず、1人で介護を続ける肉体的・精神的負担は想像を絶する。
なぜ、そんなにも辛く感じるのか。それは終わりがいつか分からないからだ。
いつ自分は死ねるのか。いつまで闘病や介護を続けなくちゃいけないのか。マラソンであればゴールが分かっているから、区間ごとにペース配分を決めて走り切れるし、試験だって合否判定を1つのゴールとして力を出し切ることができる。
だが闘病や介護は違う。ゴールが分からないからペース配分も決められない。今が正念場なのか、休んでもいいのかも分からない。終わりがいつか分からない辛さは味わった者にしか分からない。だから、介護者による要介護者の殺人が絶えなかったのだ、昔は。
そこで、悲劇をこれ以上生まないためにゴールを作った。寿命は70年と終わりを定めたことで、救われる人が大勢いた。あと数年で死ねる、あと数年でこの苦悩から解放される。そう思えるようになったことで、ラストスパートをかけられるようになった。もう少しだ、と踏ん張る力が湧いてきた。
さらに、闘病や介護が必要ない健康な人たちにとっては、自分の理想とする死に方を選べるようになった。母や亡き父のように、家族に見守られながら逝くのが一般的だが、他にもいくつかのパターンを選択できる。江戸時代の切腹や通り魔から通行人をかばって死ぬようなことも、専門家や警察の協力を得て可能となった。
みんなそれぞれが思い思いの死を選べることで、幸福度が高い割合で保たれている。ドラマチックに死にたい人はドラマチックに、穏やかに死にたい人は穏やかに死ねる。国家維持法のおかげで、ようやくこの素晴らしい世界に到達できた。全ての先人たちに感謝したい。
「16時30分、死亡を確認しました。今、死亡診断書を作成してきますので、もう少しお待ちください」
医師が沈痛な表情で挨拶して病室を出ていくと、看護師も続いて母に一礼し、みんなにも一礼して出ていった。それを見届けてから、亜里沙はすすり泣いた。
寿命の制定のいいところは、死ぬ本人だけでなく、周りの人間にもある。それは永遠の別れをするという覚悟を前もってできる点だ。
亜里沙。はい、ハンカチ」
「んんん、ありがど」
国家維持法ができる前は、役所への死亡届の提出とか葬式の準備とかの忙しさによって悲しさを無理矢理忘れさせようとしていたらしいが、そんな強引な手段では大切な人との別れなんてできるわけがない。でも死亡日があらかじめ決まっていれば、ほとんどの人は当日までに心の中で区切りをつけることができる。たまに亜里沙のように、人より時間のかかる人もいるけど。
「もう少し……お義母さん、生きてちゃダメだったのかな。健康だったんだし」
「そんなことしたら絶対後悔したと思うよ。これでよかったんだよ」
「でも……」
「国家維持法がなかったら、こうして母さんの最期に立ち会えなかったかもしれないんだよ?」
亜里沙の気持ちも分かるが、やっぱりこれでよかったと思う。
過去の政府は人生100年とか言って長生きを推奨していた。推奨するだけしておいて、国民全員が長生きできるようには決してしなかった。社会保険料は上げて、給料は下げる。誰でも入居できる老人ホームは作らず、自分ら権力者や金持ちはいい思いができるように高級老人ホームを作って悠々自適に生きていた。政治家は1人残らず無責任だった。
病院にしてもそうだ。病気とは闘わなければならなかった。白旗を振ってはいけないという価値観で脳みそが固まっていた。だがようやく全員が気づいた、自分たちはなんて恐ろしいことをしていたのだと。生きていてもいいなんて、とてつもなく残酷なことだったんだと、後悔した。
若い世代や中高年にしてもそうだ。自分もいつかあんな痛ましい姿になるのか。それとも、その姿をずっとそばで見ていなくてはいけないのか。
そんな不安も高齢者の支援の負担も心労も、物質的に豊かになった社会での不満を解消してくれる。国家維持法とは、そういう理想的な法律なのだ。
なかなか気持ちの整理がつかない亜里沙の背中をさすっていると、医師が書類を持ってきてくれた。
「これから葬儀場の方がお母様を引き取りに来られます。手続きは以上になります」
「どうもありがとうございました。お世話になりました」
医師が下がったあと、姉さんと篤義兄さんは帰宅を促したが、亜里沙のためにも少しだけ残ることにした。拓海も付き合ってくれた。
「そう。じゃあまた土曜日に」
病室を出る姉さんの肩が震えているのが見えた。その肩に、篤義兄さんはそっと手を添えていた。
亜里沙、もう少しだけ、ここにいようか」
亜里沙は泣きながら頷いた。



この物語はフィクションです。