ショートショートの披露場

短い小説を書いています

ボタン

平日の午前中ということもあって、駅前行きのバスには運転手が1人と乗客が5人だけだった。バス後部の2人掛けの席に座る女性は、息子の研人が公共の場にふさわしくない行動を繰り返すので、てんてこ舞いだった。
「ケンくん!お願いだから大人しくして!」
それでも、研人は思うがままに動いた。母親のひざの上に立って前の座席に飛び移ろうとしたり、窓ガラスをペシペシ叩いたり、鼻クソを投げたり。
母子のななめ前にはおばあさんが、ななめ後ろにはスーツを着た男性がいた。母親は申し訳ない気持ちでいっぱいで、マスク越しでもつ疲れているのが見て取れた。
そんな心情を察してか、おばあさんが声をかけた。
「まあまあ、元気があっていいじゃない。気にせんでもいいよ」
母親は安心できたのか、笑顔がこぼれた。おばあさんも育児を経験してきたのだろう、母親と話が盛り上がった。その間に研人の興味は窓枠に設置された降車ボタンへと注がれた。
ボタンを押すすんでの所で母親が気づき、研人をボタンから遠ざけた。
だが研人は諦めなかった。何度母親の手で引き戻されようとも、どうしても研人はあのボタンを押したかった。連打したかった。
母親もおばあさんとの会話に集中できず、つい「ケン!やめなさい!」とおばあさんをも驚かせる鋭い声をあげてしまった。
しかし、それでも研人は一瞬その剣幕に怯んだだけで、また降車ボタンに手を伸ばし始める。母親は溜め息をついた。
すると、おばあさんが何か思いついたのか、鞄の中を探し始めた。
「あった。ケンくん、はいこれ」
そういっておばあさんは、テレビのリモコンを差し出した。
スマホと間違えて持ってきちゃったのよ。ボタンいっぱいあるし、こっちで遊ばない?」
大量のボタンを見て、研人は目を輝かせた。おばあさんからリモコンをひったくると、どのボタンから押そうかとドキドキしながら迷っている。
悩んだ末に、研人は一番目立っている大きな赤いボタンを押すことにした。リモコンを座席に置き、正座をして呼吸を整える。右腕を振り上げ、人差し指に集中する。そして勢い良く腕を振り下ろしてボタンを押した。と、同時に、
「ピュウウ~ドン!」
と、打ち上げ花火のような音が車内に響いた。昼間だし、空耳だろうと、母親とおばあさんは気にも止めなかった。
しかし、研人がまた大きな赤いボタンを押すと、
「ピュウウ~ドン!」
と音がした。
「もしかして、このリモコンから?」
「そんなまさか……だって普通のテレビのリモコンよ」
母親とおばあさんは不思議がった。車内を見渡してみても、特に変なものはない。
2人の心配をよそに、研人は大興奮していた。面白くた仕方ないのだ。そして今度は、数字の1か書かれたボタンを押してみた。すると、
「ワン」
と犬の鳴き声が聞こえてきた。母親とおばあさんは身を乗り出して座席と座席の間を探してみたが、犬はいなかった。だんだんと不安になってきた2人とは反対に、研人はますます楽しそう。
今度は研人が2のボタンを押してみると、
「ワン、ワン」
犬の鳴き声が2回聞こえてきた。研人がキャッキャと笑っているすぐ脇で、母親が何かに気づいた。母親はもう1度ボタンを押すよう研人に促した。
「なにか分かった?」
見落とすまいと集中している母親は、おばあさんの問いかけに黙って頷いた。
おばあさんも固唾を呑んで見守る中、研人が2のボタンを押すと、
「ワン、ワン」
と、またさっきと同じように犬の鳴き声が2回聞こえてきた。そして母親は見逃さなかった。母子のななめ後ろに座っているスーツを着た男のマスクがもごもごと動いたのを。
そう、スーツ男が、研人がボタンを押すたびにモノマネをしていたのだ。
母親とおばあさんは、奇妙な音の正体が解って安心した。バス内に漂っていた緊張の糸がほぐれ、和やかな雰囲気に包まれた。
仕掛けが解った研人はスーツ男にリモコンを向けて、どんどんボタンを押した。
研人が3を押して、スーツ男が「ワン、ワン、ワン」と鳴く。4を押して「ワン、ワン、ワン、ワン」と鳴く。だんだん数字が増えるにつれて、スーツ男は息苦しそうになり、鳴き声が少なくなった。
研人はイライラしてボタンを連打するが、スーツ男はちゃんと鳴いてくれない。試しに数字のボタンを長押ししてみると、スーツ男は、
「ワーーーン」
と、ボタンを押した秒数分だけ長く吠えた。研人はとても楽しそうだが、スーツ男は苦しそうだ。
その後も2人の掛け合いは続いた。
研人が地上波ボタンを押すと、スーツ男はアブラゼミの鳴き声をマネした。研人はつい、窓の外にセミを探した。
BSボタンを押すとウグイスの鳴き声が、番組表ボタンを押すとマナーモードになった携帯電話のバイブ音が聞こえてくる。本物と勘違いした母親は鞄からスマホを取り出して笑った。
そして、研人が入力切替ボタンを押すと、「プゥー」とおならの音がした。研人がお腹を抱えて笑っていると、スーツ男が初めて喋った。
「あ、すみません」



この物語はフィクションです。