ショートショートの披露場

短い小説を書いています

愛する人

オレは今、トイレにいる。お食事中の方がいたら申し訳ない、謝ります。トイレで何をしているかと言えば、当然だが用を足している。トイレは排泄の場であり、オレはここで用を足す。それだけに集中する。携帯を操作したり、新聞などを読んだりはしない。用を足すだけだ。
こんなオレだが、生活を共にする者がいる。千尋だ。千尋は可愛いぞ。みんなも口々に可愛いと言う。まるで自分が褒められているように嬉しくなる。ノロケではない。ただの事実だ。
千尋は可愛いばかりではない。明るい性格で、行動範囲も広い。フェスやイベントにもよく行くし、自然の中で撮った写真をSNSに投稿したりもする。料理も作るが、まあ、ぼちぼちだ。
「ただいまー」
噂をすれば、千尋が帰ってきた。一言でも声を聞けば分かる。千尋の性格をそのまま形にしたような、良く通る綺麗な声だ。
オレは出迎えるためにトイレのドアを開けようとした時、ある気配を感じ取った。千尋の他に誰かがいる。そいつの声が聞こえたが、おそらく男だ。オレはトイレを飛び出し、千尋を守るように千尋とその男の間に割って入った。うっ……この臭いは……酒か。二人とも飲んできたのか。オレは一層警戒心を強め、男をにらんだ。喧嘩腰だったオレを千尋は優しく制止し、その男を紹介してくれた。
「信吾君。飲み友達だから心配しないで。仲良くしてね」
千尋がこいつを友達だと言うのなら、オレはひとまずその言葉を信用する。が、納得したわけではない。オレという存在がいながら、こんな時間に家に招いて平気なのか、千尋
「終電なくなっちゃったみたいでさ」
こういう場合の常套句だな。オレから言わせれば、雨が降ってるわけでもあるまいし、歩いて帰れよって話だ。大の男が情けない。
それに。それにさ、千尋。これは勘だし、根拠はないけど、お前もしかして、信吾のこと、ちょっとイイかもって思ってないか?オレは頭は悪いけど、千尋とは付き合い長いから何となくそう思ったんだ。信吾を見る千尋の目が、いつもと少し違う気がしたから。
あの目は、そう。同棲を始めて1年くらいしたあの頃。お互いにお互いがいて当たり前みたいな、不仲ではないけど、付き合いたてのカップルみたいにラブラブでもなくなかったあの頃。一緒に公園を散歩していた時に見たことがあった。
確か土曜日で、一週間の疲れが貯まっていたのか、千尋の顔は少し曇っていた。良く晴れてたし、半ばオレが無理矢理外に連れ出したんだっけ。お前はアウトドア派だから、広くて緑の多い公園を並んで歩いていたら、自然といつもの明るい顔に戻っていった。オレは嬉しくなって、千尋と同じように笑顔になった。浮かれていた、と言ってもいい。
それでも、オレは見逃さなかったぜ。公園ですれ違った、ランニング中の男を見てたあの目。どう言ったら伝わるだろう。輝いてた?みたいな。友達が結婚することになって、自分のことのように喜んでた時にも、ずっと行きたがってたバンドのライブに行けた時にも、久々に帰省して母親の手料理を食べた時にも見せなかったあの目、あの表情。そんな、今まで誰にも見せたことのないような顔して、その男をつけようとしたから、オレは全力で止めたんだよなぁ。
で、今、千尋はオレが初めて見る男を部屋へ連れ込み、一晩だけ泊めると言っている。それほど広いわけでもないこの部屋に。千尋とオレはいつものベッドで、信吾はソファーで寝ることになったが、どうも不安だ。信吾は巨漢でもなく、変態っぽくも見えないが、紛れもなく男だろう。しかも、二人とも酒が入っている。どちらも泥酔とまではいかないが、素面からは遠い状態に見える。信吾は、オレが近くにいるからか、緊張しているようだ。が、気は抜けない。猫を被ってる可能性もある。オレが寝静まる頃合いを見計らって、千尋に手を出すかもしれない。危険だ。
前にも言ったが、千尋は可愛い。そして困った人を放っておけない正義感と優しさがある。そこに付け入ろうとする卑劣な男が多いこと多いこと。世の中は危険だらけだ。
ということで、オレは信吾が悪さをしないように見張るため、ソファーの脇で寝ることにする。
「もー。そんなとこで寝たら風邪引いちゃうよー?」
大丈夫だ。万が一引いても、千尋に移すようなことは絶対しないから安心してくれ。
「全く、頑固なんだから。信吾君、どうする?」
「僕は平気だよ。それより、毛布まで用意してもらって悪いね。ありがとう」
ふん。酔ってはいても、礼儀は弁えているようだな。だが、いくら潔白アピールをしようとも、オレがお前への警戒を解くことはないぞ。
「じゃあ、信吾君。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
どうぞどうぞ。ごゆっくり眠りな。そして深く眠りな。たとえ寝惚けてても、千尋に近づこうとすれば噛みついてやるから覚悟しておけよ。
「マロンも。おやすみ」
オレがきちんと見張っておくから、安心して寝ていいぞ、千尋。有り得ないだろうが、オレが眠っちまっても、何かあったら声をかけてくれ。飛び起きて助けるから。
そしてオレは「ワン!」と千尋におやすみの挨拶をして、ソファーの脇で丸くなった。





この物語はフィクションです。