ショートショートの披露場

短い小説を書いています

迷子

田上さん(仮名)の話によると、それは日付が変わるか変わらないかぐらいの、深い夜のことだった。その日は仕事が早く終わり、久しぶりに同僚と飲みに行くことにした。数人に声をかけ、都合の良かった高岡さん(仮名)と小松さん(仮名)と合わせて3人で飲むことになった。とりあえず3人は会社近くの居酒屋へ向かった。
田上さんたちは同期入社だが、今は別々の課に所属している。定時に帰らないことは普通だと考えている人間が未だに多いこの国への不満、仕事ができない上司や部下への愚痴など、久々に会った3人はストレスをぶち撒けるように語った。
「頭ん中が昭和で止まってるんだ、あいつら」
「まったくだ。そんなに昭和が好きなら、あの時代と同じ額の給料をよこせ!」
親しい間柄の同僚たちと久しぶりに会って気が緩んだことも手伝って、田上さんたちはあっという間に酔っ払った。3人が3人とも、酔うと陽気になるタイプで、会社の飲み会よりも盛り上がっていた。
「よーし、もう1件行くぞー!」
田上さんたちは3件目の居酒屋へ向かい、そこでも飲んで笑って、笑って飲んでを繰り返した。
その店で、田上さんはふと自宅マンションの部屋の蛍光灯が切れていることを思い出した。
「もう電器屋とか閉まっちゃってるよなぁ」
後悔したのは一瞬で、まあ暗くてもどこに何があるかは分かってるし、いざとなれば携帯を使えば大丈夫だろう、と気にも留めなかった。
結局3人はその後も飲み続けた。しかし、4件目をどこにするか話し合っている途中で、小松さんが眠り始めてしまった。仕方なく酒の席はそこでお開きとなった。田上さんと小松さんは帰る方向が同じなので、田上さんは小松さんを抱えて家まで送り届けた。
その後、ギリギリで終電に乗ることができた田上さんは、千鳥足で自宅マンションまで向かった。幸い通行人も自転車も通らず、道の真ん中をフラフラと歩いていたが、誰とも接触しなかった。
自宅マンションの目と鼻の先まで来たところで、一旦街灯が光る電柱に寄りかかって小休止した。街灯に照らされながら呼吸を整える田上さんは、背中に何かひんやりと冷たいものが触れたように感じた。幽霊かと思うも、酔った田上さんはまるで幽霊を茶化すように手の甲を前方へ向け、うらめしやー、と言いながらまたふらふらと歩き出した。
自室のドアの前まで来た田上さんは、ポケットに手を入れ、鍵を取り出した。しかし、上手く鍵を開けられずにもたもたしていると、鍵を落としてしまった。それを拾おうと屈んだ田上さんは、さっき背中に感じた冷たさを今度は頬に感じた。
それで一度冷静になった田上さんは、鍵を拾い、ドアを開け、何かから逃げるように部屋へ駆け込んだ。施錠して、灯りを点けようと壁を這うようにスイッチを探り当てた。
カチッ、という音とともに廊下と部屋が明るくなるはずだったが、灯りは点かなかった。真っ暗なままだった。
田上さんは蛍光灯が切れていることを思い出した。半ば諦め、靴を脱ぎ、鞄をその場に置いて廊下へ上がった。いつもなら洗濯機の周りで脱ぎっ放しになっている服を滑らないように慎重に踏み進み、ゴミ箱に入りきらなかったゴミを避けて歩くところだが、この時は違った。酔っていたのと蛍光灯が点かない苛立ちで、足に当たる物は蹴り飛ばそうと、大股で歩いた。
「あれ?」
しかし、田上さんの足には何も触れなかった。足元を目を凝らして見てみたが、暗くて何も見えない。玄関を上がって5、6歩進んだところに服が散乱しているはずだったが、その辺りには何もなかった。
少しずつ、田上さんの酔いは覚めていった。
早く寝てしまおうとベッドのある方向へ身体を向けた。ベッドの近くにはローテーブルがあるはずで、それに脚をぶつけてしまわないように、田上さんは四つん這いでベッドへ向かった。時々、右手を前に出してローテーブルがないか確認しながら進んだ。
「この辺にあるはずなのに……」
誰も動かしていなければ、ベッドの近くにあるはずのローテーブルが見つからなかった。何かがおかしい。
田上さんは怖くなり、立ち上がった。一度部屋を出ようと玄関の方へ振り返った。そこでふと、携帯で足元を照らすことを思いつき、携帯をポケットから出してその照明を足元へ向けてみた。すると、自分の足と床が見え、安堵した。そして、携帯の照明を辺りに向け、ベッドを探した。
しかし、光は闇に吸い込まれ、田上さんは周りに何も発見できなかった。テレビも、机も、窓も、クローゼットも、目覚まし時計も、壁すらも見当たらなかった。そこまで広い部屋ではなく、部屋のどこにいても少しの灯りがあれば四方の壁が見えるはずだった。が、今は携帯の光に照らされた自分の身体しか、見えるものがない。右手に握った携帯を前方へ向けながら数歩進んでみたが、何も見える気がしない。
田上さんはひたすら走った。全力で疾走したが、この何もない空間を脱出するには至らなかった。
「はあはあ……どうなってんだよ、これ……」
田上さんは無我夢中で走った。自分を中心に半径1メートルも照らせていない携帯の灯りしかない状況で思いっきり走った。
すると突然、左足に何かが当たり、転倒してうつ伏せになった。お腹の辺りにさっき足に当たった何かが挟まっている。それは田上さんの鞄だった。
顔を上げてみると、薄暗いがどこかで見たことのある光景だった。携帯で目の前を照らしてみると、田上さんの自宅の玄関であることが分かった。緊張の糸が解れ、一安心した田上さんはそこでそのまま眠ってしまったらしい。





この物語はフィクションです。