ショートショートの披露場

短い小説を書いています

願い事一つ

「ここに5億円ございます。どうかこれをお使いください」
こんなことを言われて驚かない人はいないだろう。吉田征一郎も当然、心底驚いた。
吉田は物理学者で、今はタイムマシンの開発に心血を注いでいる。もう少しで完成する段階まできているのだが、当初の計画よりも予算が嵩み、安全装置の組み立てと設置が進まないでいた。安全装置に掛かる資金さえ調達できれば、完成は間違いないだろう。吉田はこの課題を解決できないでいた。
「どうしたらいいんだ……。マシン自体の設計をし直すか?いや、設計を変えても予算はどうにもならない。いっそ、安全装置を付けずに今のまま発表するか?いや、そんな危険なものは使用できるはずがない。どうすれば……」
研究室の机でずっと考えていても、解決策は見いだせない。吉田は思い詰めすぎるのも良くないと思い、気分を変えようと散歩に出かけた。
吉田は緑の多い静かな公園へやってきた。実験などで行き詰まるとよくここへ来てリフレッシュするのだ。
「この公園はやっぱり落ち着くなあ」
吉田はベンチに腰を下ろし、タイムマシンの設計図を鞄から取り出し、改めて見直した。
「はあ……どうにかならないものかな」
溜め息が漏れた。追い込まれた局面を打開できない自分を情けなく思い、本音が口をついて出てしまった。
「お金があれば何とかなるんだが……」
するとそこに、黒いスーツを着た誠実そうな男が現れ、吉田に話しかけた。
「お困りですか?」
「え?ああ、聞かれてしまいましたか」
「お金が必要なんですね?」
「まあ、そうなんですが、あなたには関係……」
ありませんと吉田は言いかけたが、スーツの男は食い入るように言った。
「ここに5億円ございます。どうかこれをお使いください」
こんなことを言われて驚かない人はいないだろう。吉田も当然、心底驚いた。突然見ず知らずの人に大金をあげると言われても、信じられるはずがない。吉田はそう思う一方で、話が本当ならば、そしてリスクがないのなら、是非貰いたいとも思っていた。
「本当に5億円あるのですか?見たところ普通のアタッシュケース一つしか手にしていないようですが」
「もちろん本当でございます」
そう言うとスーツの男はケースを開け、中からどんどん一万円の札束を出し、ベンチの上に積んでいった。吉田はそれらを数えた結果、本当に5億円あり、偽札でもないようだった。
「本物の5億円……」
「はい、正真正銘の5億円です。受け取っていただけますよね?」
「いや、しかし……これだけの大金だ。失礼ですが、何か裏があるのではと思えてなりません」
「確かに。そう疑うのも無理ありませんよね。しかし、本当に何もないのです。ただあなたに、このお金を使っていただきたい一心で申し上げている次第です」
吉田は困惑した表情を見せた。
(この男を信じて金をもらえばタイムマシンは完成し、莫大な金が手に入る。そうすれば、礼はいくらでもできる。だが、こうも上手いタイミングで美味しい話が転がってくるだろうか。実に怪しい。不自然だ。しかし、目の前に夢を実現できるだけの金があるのに……)
吉田は悩んだ末に、5億円に手を伸ばした。
「私はあなたを信じます。このお金、私にください!」
スーツの男は安堵した。
「良かった、信じていただけて。何よりお金を受け取っていただけて」
「いつか、いつか必ず返しますから。絶対に。ですから、あなたのお名前と連絡先を」
「その必要はございません」
そう言ってスーツの男はすっと立ち上がった。
「お金、必ず使ってくださいね。それでは失礼します」
と言い残して、スーツの男は名前も名乗らず足早に去って行った。
研究室に帰る道すがら、吉田は受け取った金について考えていた。もしかしたら、出来の良い偽札だったのでは?それとも盗んだ金?今からでも返しに行こうかとも思ったが、研究室に着き、滞っていた安全装置の開発を再開する頃には、すっかり黒いスーツを着た誠実そうな男から大金を受け取ったことなど忘れていた。
そして時は過ぎ、吉田はタイムマシンを完成させた。5億円もの大金を手に入れたことで、より高性能な安全装置を開発できたし、マシンの室内も計画より広く仕上げることが可能となった。
「素晴らしい発明です。タイムマシンの完成、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
吉田のタイムマシンは、連日テレビや新聞を賑わせた。新幹線や飛行機の発達により、日本中を旅行することが可能となり、宇宙船の開発により、宇宙を旅行することも可能。そして、とうとうタイムマシンの開発により、人々は時間旅行をも可能となったのだ。この偉大な業績は多大な富を吉田にもたらした。その額と比べたら、テレビ・ラジオの出演料やあちこちでの講演会のギャラなど、微々たるものだった。
吉田は秘書を雇うことにした。吉田の本業は専らタイムマシンの研究にある。完成こそしたが、まだまだ改良の余地もある。メディアへの露出も、タイムマシンを普及させるためにも必要だ。そこで、主にスケジュール管理を任せられる人物を一人、吉田の側に置いた。その秘書は木村耕作と言い、誠実そうで笑顔の爽やかな男性で、働き者だった。吉田の運転手も務めたり、吉田を献身的にサポートした。
多忙な2人にとって、それからはあっという間だった。いったい、どれだけの時間が経っただろう。吉田はすっかり年老いて衰弱し、医者によると、保ってあと一ヶ月という所まできていた。
広い病室には吉田と木村だけ。医者は先ほど検診を終え、出ていった。静かな病室では、心電図などの機器の無機質な音だけが、規則的に鳴り響いていた。そこに、吉田の弱々しい声が入り込んだ。
「私も、もう長くないんだな……」
「滅多なこと仰らないでください」
「長年の夢だったタイムマシンも完成できたし、多くの人に喜んでもらえた。もう何も……」
「まだまだ、吉田様にはやってもらわねばならない仕事がございます」
そう言って木村は、鞄から手帳を取り出し、今後1週間の予定を読み上げた。手帳を持つ手が、微かに震えていた。その時、ふと吉田はタイムマシンの完成に資金援助という形で助けてくれた男がいたことを思い出した。何かお礼をしたいが、今の今までどこの誰かは結局分からなかった。そこで、吉田は木村に全てを託すことにした。
「一つ、頼まれてくれんか?」
「はい、なんなりと」
「私には、家族も親族もいない。君は私のために良く働いてくれた。だから、私の全財産を受け取ってくれ」
「え……吉田様の全財産を私が……」
「それともう一つ。以前、私がお金に困っている時に、助けてくれた人がいてな。本当はその方にお礼がしたいんだが、どこの誰かは分からないんだ。ずいぶん昔だから、その方が生きているかも分からない。だから、せめてもの恩返しとして、私と同じようにお金に困っている人を助けてくれないか?」
「承知しました。しかし、私には毎月のお給料だけで十分です。吉田様の財産など持て余してしまいます。不躾なご提案ですが、譲り受けたものは、お金に困っている多くの方へ寄付してもよろしいでしょうか」
「ああ。好きに使うと良い」
「ありがとうございます」
医者の宣告通り、まもなく吉田は息を引き取った。木村は遺産の相続を済ませ、吉田からの最後の仕事に向かった。手当たり次第にお金で困っている人にその場で現金を渡していった。相続した遺産も半分を切ったところで、今度は吉田の開発したタイムマシンで過去や未来へ行き、また手当たり次第にお金を渡していった。
その道中、木村は公園でベンチに座っている男を発見した。近づいていくと、その男の声が木村の耳に届いた。
「お金があれば何とかなるんだが……」
木村はすかさず声をかけた。
「お困りですか?」





この物語はフィクションです。