ショートショートの披露場

短い小説を書いています

仕事

その男は片側2車線の県道沿いにいた。
桜の見頃を迎えるこの時期らしく、午前中からとても暖かい。これくらいなら上着はいらないと思われるが、男の傍らには薄手のジャケットが置かれていた。
「夕暮れ時は意外と冷えますからね。念のため、持ってきてるんです」
この道10年目になるという男は、柔和な表情でそう語った。
『看板を持って1日中立っている』それがこの男の仕事だった。屋根のない場所にずっと立っているのは、とても重労働だ。冷たい雨や風に吹き晒らしの状態でいるのは相当な忍耐力と根気がいる。
「精神論だけではやっていけませんよ。こうして雨風を一切通さない、防水防塵の作業者は必須です。寒くなってきたら厚手の肌着やセーターとかを何枚も着込みます」
なるほど、何年も積み重ねてきた経験から、男の中にノウハウが出来上がっているらしい。今でこそ頼れる男だが、これまでの人生は波乱万丈だった。
2050年ニホンの貧民街で男は産まれた。2045年に起こると予想されていたシンギュラリティも結局起こらず、世界がきれいに富裕層と貧困層に二極化された時代だった。生まれた層によって、その後の一生が既に決められていた。もう少し前の時代の資産家や権力者たちが、そうなるように取り組んだのだ。
マイナスからの人生となった男の目は、そんな時代に放り込まれてもなお、死んでいなかった。
「違う世界を見てみたかったんですよ。僕の生まれたああいう世界ではない世界を」
男の元いた世界では犯罪はあってあたりまえだった。腹が減れば、それが人の家でも実のなる木を枝ごと持って帰ってきたり、寒くて服が欲しいときは不用心に屋外に干してある服を盗んだ。
「でもそれっていけないことだと思うんです。強引すぎるというか、もっと他に人を傷つけない方法ってないのかなって」
理想を求めて各地を転々とした。いろんな土地でいろんな人と出会っていく中で、男の中に変化が生まれた。
「世界って広いんだなあって思いました。そう上、人が多い。これ、全員は救えないかもって心が折れたんです」
世界人口約200億人。富裕層と貧困層それぞれおよそ100億人だ。人間1人ではどうにもできない数だろう。そこで男は考えを改めた。
「全員は無理だけど、自分の周りにいる人だけでもなんとかできないかと思ったんです」
己の限界を知り、辛酸を舐めても、まだ心の炎は消えていなかった。
学もない、経験もない、貧民街の生まれという多大なハンデを背負っても、男はまた立ち上がった。ひたすら自分の足で歩き、できることを探し回った。その道中、ある人物と出会う。
「信号待ちをしている時でした。後ろから声をかけられたんです」
相手は住宅メーカーの支店長を任されている男だった。その支店長は男にこう言った。
「その服、貸せよ。靴の泥落とすから」
支店長は一目で男が貧民街出身と分かったのだろう。それで、典型的な富裕層の態度を取ったのだ。それでも男は、自分にできることならと着ていた服を渡した。そして、支店長が靴を綺麗にしたのを見てから、仕事をくださいと頼みこんだ。すると、
「はい?お前のような奴にやる仕事なんか……いや、待てよ……。そうだ、ちょうどいいのがある」
そう言って男が任されたのが、この看板持ちの仕事だ。
支店長の勤める住宅メーカーが作った住宅展示場は、県道から少し離れた場所にある。支店長曰く、いくらいいモノやサービスを作っても、その存在を知らないと手に取ってもらえないという。
「ましてや、うちの展示場は立地が悪いので、他よりも不利なんですよ」
一人でも多くの人に知ってもらえるよう、テレビやネットにCMを出したり、ホームページに詳細な地図も載せているという。
「打てる手は全部打ちますよ」
デジタルな広報活動だけでは足りず、他にも何かできないと考えを巡られている時に、偶然男と出会った。
「最初は、なんであいつらの方から話しかけてくるんだって腹が立ったんですけど、パッとひらめいたんですよ!こいつらを使えばいいんだって」
その後、男に周辺地図を覚えてもらい、展示場の場所を訊いてきた人には案内をし、基本的には看板を持って、目立つところに立っていてもらった。すると、ぽつぽつと客足が伸びたという。
男は支店長に褒められた。ようやく人助けができたと涙を流した。男がやっと見つけた居場所でもある。離すもんかと必死で看板を持ち続けた。そんな男の熱意に支店長も応えたくなったのだろうか。
「おい、目立つように派手な色の服着とけ。それとこれ、着られなくなった服まとめといたやつ、廃品回収に出しといて」
それらを男は支店長からの厚意と受け取り、ゴミ袋にまとめられた服は毎日大切に着回し、集積所から派手な色の服だけを盗んで着るようになった。そして数年が経ち、現在。
あの男のいた場所には、1枚の看板と1体の案山子が立っていた。それは、とても穏やかな表情の案山子だった。



この物語はフィクションです。

あの雲、綿あめみたいだな。でも雲ってだいたい綿あめみたいな感じか。……実際はどうなんだろう。甘いのかな。でもどうしよう。手が届かない。あ、そうだ。写真に撮ってみよう。カシャ。よし、これで現像した写真から雲の部分を剥がして食べてみよう。……うん!甘い!



この物語はフィクションです。

ウサギとカメ

ある小さな島で毎年行われる祭りが、今年もやってきた。出店が並んだり、神輿を担いで村をねり歩いたり、例年と同じく賑わいを見せていた。
2日に渡って行われるこの祭りの最後は、必ずある競技で締めくくられる。それは一対一の賞金レースである。小さな島故、たいした額ではないが、そこそこの大金が手に入るため、毎年参加希望者は後を絶たない。祭りの運営委員による厳正なる審査の結果、今年はウサギとカメが選ばれた。
スタート地点は島で一番高い山の頂上で、祭りが行われている山の麓がゴールだ。現在、頂上にはウサギとカメと審判しかいない。
「審判さん、私はもう準備できています。そろそろ始めませんか」
「お待ちください、カメさん。ウサギさんがまだです」
「もうちょいだから、ちょっと待って。この焼きそば、意外とボリュームあってヤベェ」
ウサギがようやく食べ終わったところで、審判が2人を集める。
「準備はいいですね?」
「もちろんです」
「食休みしたいけど、まあ大丈夫っしょ。とっとと始めよっか」
スタートラインにウサギとカメが立ったことを確認した審判は空砲を撃った。それを合図に2人は走り出す。
出だしは拮抗した勝負だった。満腹状態のウサギと運営委員も驚いた走力のあるカメ。とても見応えのあるレースだ。自慢の脚力を活かし、瞬間移動にも見えるほどカメを置き去りにし、少し進んだところで休む。カメに追いつかれたらまたダッシュ、これを繰り返していた。
一方カメは、この日のために浜辺で特訓を重ねていたおかげで、持久力がついた。スタートからわずかにもスピードを落とさず、常に一定のペースで走り続けている。
「へえ〜。あんた、やるねえ。結構鍛えたのかな?」
「この日のために、毎日ランニングを10km続けてきました」
「それはそれは、ご苦労さん」
「今日はあなたに勝ちますから」
「ッフフ。何言ってんだよ。勝つのはオレだ」
「負けませんよ」
懸命なカメをあざ笑うかのように、ウサギは瞬足で走り去っていった。
「チッ、オレがカメなんかに負けっかよ」
レース終盤、大幅にリードしたウサギはゆっくりと食休みを取るとこにした。
(これだけ離せば、もう余裕で勝てるな)
安心したウサギは、つい居眠りしてしまった。涎を垂らして眠っていると、とうとうカメが追いついた。
「ウサギさん。どうしてこんなところで寝てるんですか!?まだ勝負はついてませんよ」
「ん?ああ、カメか。もうここまで来たのか。意外と速いな」
「賞金のかかったレースなんですから、真剣にやってください」
「いやいや、オレの本気知らないでしょ?これぐらいがちょうどいいハンデなんだよ」
「失礼ですが、己を過信しすぎではありませんか?足元すくわれますよ」
「必死だな。そんなに金が要るのか」
「ええ、浦島さんの介護費用のために」
「浦島……ああ、あんた、あの時のカメか。え、でも浦島は別にあんたの主人じゃないでしょ?なんで」
「私はあの方に命を救っていただけましたから」
「……ふーん。真面目だねえ」
「そういうあなたはどうしてこのレースに?」
「……海外旅行に行くためだよ。この島、狭いし。できれば、そのまま移住しようかな」
「そうでしたか。夢のために……」
「夢じゃねえよ。退屈だからだよ」
「何にせよ、目的があるのはいいことです。さあ!勝負の続きをしましょう」
「へいへい、お先にどうぞ。オレはもうちょい休憩してから行くよ。勝つために、な」
「そう来なくては!負けませんよ!」
ウサギは甲羅を揺らしながら走っていくカメを見送ってから、また一眠りした。


先にゴールテープを切ったのはカメだった。日も暮れ始めていたが、レースの勝者と宴会をしたいものたちが、今年もゴールの近くに酒席を設けてたくさん集まっていた。
「おお、カメさん!おめでとう!」
「カメさん、おめでとう」
「ありがとうございます。諦めなくてよかったです」
「お疲れさん。さあさ、飲もう飲もう!」
「はい。……あの、ウサギさんは」
「ん?そういえば、まだ……」
その時、レース終了を知らせる空砲が鳴った。ゴールしたウサギにみんなが声をかけていく。
「お疲れ、ウサギさん。惜しかったね」
「ナイスランだったよ。さあ、飲もう。何飲む?持ってくるよ」
「そうだな、リンゴジュースでももらおうかな」
「あいよ。じゃ、先に行って席取っといてくれよ」
「ああ」
みんなが酒席に移動し始めてから、カメがウサギに声をかけた。
「お疲れ様でした、ウサギさん。今回は勝たせてもらいました」
「やられたよ。案外いい走りするんだな」
「特訓した甲斐がありました」
2人が話をしているところへ、サメが近づいて来た。
「やあやあ、ウサギさんにカメさん。レースお疲れさん。いい勝負だったよ」
「サメさん、ありがとうございます」
「……サメの兄貴、来てたんンすか?」
「当然だろ。いくら貸したと思ってんだ。ほら、とっとと賞金よこせ」
「そ、それが……」
「ウサギさん、借金があったんですか。あれ、でも、海外旅行に行きたいって」
「なに!?テメェこの野郎!逃げる気だったのか!?」
「ち、違いますよ。そんなわけないじゃないですか」
「……ウサギさん、このお金使ってください」
「はっ?おい、ウサギ。お前レースで負けたのか」
「い、いやあ……レース前に焼きそば食いすぎちゃって」
怒りが頂点に達したサメは、自慢の牙でウサギの背中の皮を剥いだ。
「ぎぃやあああ!!」
「ウサギのくせにカメなんかに負けやがって。全身の皮剥いで、利子として売り飛ばしてやる」
見かねたカメがウサギに助け舟を出した。
「このお金で早く借金を返済してください」
「ダメだ。その金はレースで勝ったあんたの賞金だ。それで、浦島を助けてやれ」
「でも、それじゃあウサギさんが」
皮を剥がされた痛みで倒れていたウサギが、ゆっくり立ち上がった。
「大丈夫だよ。休憩は十分取った。じゃあな」
そう言い残して、ウサギは颯爽と祭の雑踏の中を駆け抜けていき、あっという間に見えなくなった。



この物語はフィクションです。

オレオレ詐欺

お昼を食べ終えて皿を洗っていると、電話が鳴った。もしもし、と応えると、
「あ、もしもし。元気?オレだよオレ」
と返ってきた。いまだにあるんだねえ。オレだオレだと息子を名乗る詐欺電話。とうとううちにも来たか。そうだ、録音録音。
「元気だよ。久しぶりだねえ。珍しいね、電話なんて」
「実はさ、突然なんだけど、相談があるんだ」
「なんだい」
「来月、父さんの誕生日でしょ?匠と金出し合って、前から父さんが欲しがってた車をプレゼントしようかと思って。でも、ちょっと足りないというか、心許ないから頭金だけ出してもらえないかなって。ダメかな」
いろんな口実を考えるねえ。車なら別にローン組むのでもいいんじゃないかい?
「ローンを組んで買うのはできないのかい?」
「それじゃカッコ悪いよ。プレゼントなんだから一括でドーンと払わないと」
見栄っ張りだねえ。あの人に似ちゃったか。俺は年寄りじゃない。まだまだ運転できると頑なだったあの人を説得するのは本当大変だったよ。
「そういうもんかい。いくらくらい必要なんだい」
「頭金はたぶん100万くらいかな」
「それくらいなら出せそうだね。取りに来るのかい?」
「本当?よかった。ありがとう。週末なら休みだから、次の土曜日に行くよ」
「そうかい。待ってるよ」
息子を名乗る男からの電話を切った後、すぐに警察へ連絡した。向こうから来てくれるなら、警察の方々も捜査しやすいでしょう。
『本当?よかった。ありがとう。週末なら休みだから、次の土曜日に行くよ』
『そうかい。待ってるよ』
録音された会話を聞き終えると、私の通報で駆けつけた刑事が尋ねた。
「この男は息子さんではないんですね?」
「ええ。それに主人が免許を返納したことは息子にも伝えています」
「こちらに探らせまいと用件だけ話してそそくさと電話を切っている。お粗末な点が多いですが、これも立派な特殊詐欺事件です。容疑者の逮捕にご協力願えますか?」
「もちろんです。よろしくお願いします」
今日は火曜日。用意する100万円は数日に分けて下ろした。当日は家の周辺と中にも数人の警官が待機してくれるらしい。そして、理由をつけて男をリビングまで通して、私と話してるタイミングで警察が男を捕まえるという計画になった。
そこまでやってもらえれば大丈夫そうだし、安心できるね。上手く、男を家に上げられるか、ちょっとドキドキするね。

土曜日の午前10時頃。外で待機中の私服警官から刑事に連絡が入った。
「男が一人、そちらに向かって歩いています。容疑者かもしれません」
刑事は私に声をかけた。
「なんだか緊張してきました」
「安心してください。我々がついています」
頼もしいその言葉に少しだけ緊張が解れたその時、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「我々は台所に隠れていますので」
私は頷き返して、玄関に向かった。
「はーい、どちら様?」と扉を開けて驚いた。
「ばあちゃん。久しぶり」
「良太!どうしたの突然。何かあったの?」
「突然?何言ってんの。火曜日に今日行くよって電話したじゃん」
「火曜日に電話って……。あれ、良太だったのかい!?」
私がなかなか上がってこないので、刑事が様子を見に来た。
「あの……どうされたんですか」
「ばあちゃん、この人は?」
「刑事さんよ。こないだの電話はてっきり詐欺だと思って、警察に通報したのよ」
「あーそれでオレが金を取りに来るって言ったから、待ち伏せして捕まえようってことだったのか」
「……では、こちらはお孫さん、ですか」
「はい。息子の長男の良太です」
「では、あの会話で言っていた『匠』というのは」
「オレの弟です」
「電話を早めに切り上げようとしていたのは」
「オレ、電話苦手なんですよ。普段から電話なんてしませんし」
「やだわあ、私ったら。可愛い孫の声も忘れるなんて」



この物語はフィクションです。

喫水店

あまりの激務で疲れ果て、口を開けて休憩しているところに、同僚が声をかけてきた。
「気分転換に外でも歩かないか?」
正直乗り気ではなかったが、屋外に出たほうが気分が晴れると思い、同僚に続いていった。
「オススメの喫茶店があるんだ。『Blue』っていうんだけど、知ってるか?」
「ああ、〇〇通りのやつか。入ったことはないけど、店の前を通る時に店内を見た限りじゃ結構人入ってるよな。パッと見、いろんな人が来てた」
「そうなんだよ。子供からお年寄りまで、カップルにもファミリーにもウケがいい。人気の秘密はやっぱアレだよな」
「アレってなんだよ」
「知らないのか。見たら驚くぞー」
なんだろう。喫茶店なんだし、やっぱりコーヒーや料理が美味いとかだろうか。いや、カップルにもファミリーにも人気となると……写真映えするメニューか、一人じゃ食べきれない特大サイズの料理か。はたまた……。
予想がまとまらないうちに店に着いてしまった。同僚に続いて店内に入ると、そこに広がる光景に驚いた。
整然と並べられたテーブルと椅子。店内を広く見渡せるキッチンとその目の前にはカウンター席が設けられている。内装は普通だが、一点だけ。他の喫茶店とは違う『Blue』のセールスポイントに目を奪われた。
窓の外を魚が泳いでいる。しかも一種類じゃない。海藻もある。なんだこれは!
「いらっしゃいませ。2名様ですか?」
店員に声をかけられて我に返り、案内された席に着いた。
「な?驚いたろ」
「ああ、まるで水族館みたいだ」
「これが人気の秘密だよ」
なるほど。確かにこれはいい。小さな水槽で飼われている熱帯魚もリラックスできていいが、こういう大パノラマで見るのもいい。それに生き物の種類も多い。小魚の群れが通ったと思ったら、今度はクジラがゆっくり泳いできた。面白い。
「何か食べるか?」
「忘れてた。ここ、喫茶店か」
「気に入ったみたいだな」
「ああ、とても」
何も頼まないのも悪いと思い、とりあえずブレンドコーヒーだけ注文した。
「ずっといられるわ」
「分かる」
「見てて飽きないし、癒される」
「時間忘れるよな」
「もっと早く教えてくれよ」
「悪い。一人占めしたくて」
「ところで、これ、どういう仕組みなの?」
「おれも詳しくは知らないんだけどな、カメラで捉えたリアルタイムの映像の中で、動くものに生き物を投影して、それをこの窓に映してるらしい」
「へえー。通りから店内は普通に見えるのに、こっちからだけこの景色が見えるのすげーな」
「ここのマスターが大学教授と知り合いで、造ってもらったんだって」
なるほど。これだけ大きな窓でできるってことは、水槽とかテレビとか小さいものでもこういうことできるんじゃないか。羨ましい。うちにも欲しいな。カメラを設置するなら、やっぱりベランダ?いや、それじゃ対象物が小さくなるから、マンションの玄関のほうがいいか。
「ずっと見ていられる」
「さっきも聞いた気がする」
「本物の水族館だとさ、生き物ごとに水槽が分かれてるけど、ここは一つの水槽に全員集合してるし、腰を下ろしてコーヒー飲みながら楽しめるのもいい」
「言ってなかったけど、外が暗い時に来ると深海魚中心に現れて、昼間とは違う雰囲気が味わえるぜ」
「マジか。いいなぁ。仕事辞めてずっとここにいたい」
とても居心地が良く、ここが喫茶店であることも忘れていた。コーヒー一杯で長居するのも申し訳ないので、またブレンドコーヒーを注文した。
ふと、店の奥のほうの窓を眺めていると、周りの魚に体当たりを繰り返しながらこちらに近づいてくるサメが目についた。
「なぁ、サメがこっちに来るぜ。まさか、この窓割れないよな?」
「大丈夫だろ。でも珍しいな。あの大きさだと車だろ?なんで……」
すると、突然同僚は立ち上がり、大声で叫んだ。
「みんな逃げろ!早く!」
訳が分からなかった。
「どうしたんだ、急に」
「早く逃げるぞ!あれは





この物語はフィクションです。

愛する人

オレは今、トイレにいる。お食事中の方がいたら申し訳ない、謝ります。トイレで何をしているかと言えば、当然だが用を足している。トイレは排泄の場であり、オレはここで用を足す。それだけに集中する。携帯を操作したり、新聞などを読んだりはしない。用を足すだけだ。
こんなオレだが、生活を共にする者がいる。千尋だ。千尋は可愛いぞ。みんなも口々に可愛いと言う。まるで自分が褒められているように嬉しくなる。ノロケではない。ただの事実だ。
千尋は可愛いばかりではない。明るい性格で、行動範囲も広い。フェスやイベントにもよく行くし、自然の中で撮った写真をSNSに投稿したりもする。料理も作るが、まあ、ぼちぼちだ。
「ただいまー」
噂をすれば、千尋が帰ってきた。一言でも声を聞けば分かる。千尋の性格をそのまま形にしたような、良く通る綺麗な声だ。
オレは出迎えるためにトイレのドアを開けようとした時、ある気配を感じ取った。千尋の他に誰かがいる。そいつの声が聞こえたが、おそらく男だ。オレはトイレを飛び出し、千尋を守るように千尋とその男の間に割って入った。うっ……この臭いは……酒か。二人とも飲んできたのか。オレは一層警戒心を強め、男をにらんだ。喧嘩腰だったオレを千尋は優しく制止し、その男を紹介してくれた。
「信吾君。飲み友達だから心配しないで。仲良くしてね」
千尋がこいつを友達だと言うのなら、オレはひとまずその言葉を信用する。が、納得したわけではない。オレという存在がいながら、こんな時間に家に招いて平気なのか、千尋
「終電なくなっちゃったみたいでさ」
こういう場合の常套句だな。オレから言わせれば、雨が降ってるわけでもあるまいし、歩いて帰れよって話だ。大の男が情けない。
それに。それにさ、千尋。これは勘だし、根拠はないけど、お前もしかして、信吾のこと、ちょっとイイかもって思ってないか?オレは頭は悪いけど、千尋とは付き合い長いから何となくそう思ったんだ。信吾を見る千尋の目が、いつもと少し違う気がしたから。
あの目は、そう。同棲を始めて1年くらいしたあの頃。お互いにお互いがいて当たり前みたいな、不仲ではないけど、付き合いたてのカップルみたいにラブラブでもなくなかったあの頃。一緒に公園を散歩していた時に見たことがあった。
確か土曜日で、一週間の疲れが貯まっていたのか、千尋の顔は少し曇っていた。良く晴れてたし、半ばオレが無理矢理外に連れ出したんだっけ。お前はアウトドア派だから、広くて緑の多い公園を並んで歩いていたら、自然といつもの明るい顔に戻っていった。オレは嬉しくなって、千尋と同じように笑顔になった。浮かれていた、と言ってもいい。
それでも、オレは見逃さなかったぜ。公園ですれ違った、ランニング中の男を見てたあの目。どう言ったら伝わるだろう。輝いてた?みたいな。友達が結婚することになって、自分のことのように喜んでた時にも、ずっと行きたがってたバンドのライブに行けた時にも、久々に帰省して母親の手料理を食べた時にも見せなかったあの目、あの表情。そんな、今まで誰にも見せたことのないような顔して、その男をつけようとしたから、オレは全力で止めたんだよなぁ。
で、今、千尋はオレが初めて見る男を部屋へ連れ込み、一晩だけ泊めると言っている。それほど広いわけでもないこの部屋に。千尋とオレはいつものベッドで、信吾はソファーで寝ることになったが、どうも不安だ。信吾は巨漢でもなく、変態っぽくも見えないが、紛れもなく男だろう。しかも、二人とも酒が入っている。どちらも泥酔とまではいかないが、素面からは遠い状態に見える。信吾は、オレが近くにいるからか、緊張しているようだ。が、気は抜けない。猫を被ってる可能性もある。オレが寝静まる頃合いを見計らって、千尋に手を出すかもしれない。危険だ。
前にも言ったが、千尋は可愛い。そして困った人を放っておけない正義感と優しさがある。そこに付け入ろうとする卑劣な男が多いこと多いこと。世の中は危険だらけだ。
ということで、オレは信吾が悪さをしないように見張るため、ソファーの脇で寝ることにする。
「もー。そんなとこで寝たら風邪引いちゃうよー?」
大丈夫だ。万が一引いても、千尋に移すようなことは絶対しないから安心してくれ。
「全く、頑固なんだから。信吾君、どうする?」
「僕は平気だよ。それより、毛布まで用意してもらって悪いね。ありがとう」
ふん。酔ってはいても、礼儀は弁えているようだな。だが、いくら潔白アピールをしようとも、オレがお前への警戒を解くことはないぞ。
「じゃあ、信吾君。おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
どうぞどうぞ。ごゆっくり眠りな。そして深く眠りな。たとえ寝惚けてても、千尋に近づこうとすれば噛みついてやるから覚悟しておけよ。
「マロンも。おやすみ」
オレがきちんと見張っておくから、安心して寝ていいぞ、千尋。有り得ないだろうが、オレが眠っちまっても、何かあったら声をかけてくれ。飛び起きて助けるから。
そしてオレは「ワン!」と千尋におやすみの挨拶をして、ソファーの脇で丸くなった。





この物語はフィクションです。

迷子

田上さん(仮名)の話によると、それは日付が変わるか変わらないかぐらいの、深い夜のことだった。その日は仕事が早く終わり、久しぶりに同僚と飲みに行くことにした。数人に声をかけ、都合の良かった高岡さん(仮名)と小松さん(仮名)と合わせて3人で飲むことになった。とりあえず3人は会社近くの居酒屋へ向かった。
田上さんたちは同期入社だが、今は別々の課に所属している。定時に帰らないことは普通だと考えている人間が未だに多いこの国への不満、仕事ができない上司や部下への愚痴など、久々に会った3人はストレスをぶち撒けるように語った。
「頭ん中が昭和で止まってるんだ、あいつら」
「まったくだ。そんなに昭和が好きなら、あの時代と同じ額の給料をよこせ!」
親しい間柄の同僚たちと久しぶりに会って気が緩んだことも手伝って、田上さんたちはあっという間に酔っ払った。3人が3人とも、酔うと陽気になるタイプで、会社の飲み会よりも盛り上がっていた。
「よーし、もう1件行くぞー!」
田上さんたちは3件目の居酒屋へ向かい、そこでも飲んで笑って、笑って飲んでを繰り返した。
その店で、田上さんはふと自宅マンションの部屋の蛍光灯が切れていることを思い出した。
「もう電器屋とか閉まっちゃってるよなぁ」
後悔したのは一瞬で、まあ暗くてもどこに何があるかは分かってるし、いざとなれば携帯を使えば大丈夫だろう、と気にも留めなかった。
結局3人はその後も飲み続けた。しかし、4件目をどこにするか話し合っている途中で、小松さんが眠り始めてしまった。仕方なく酒の席はそこでお開きとなった。田上さんと小松さんは帰る方向が同じなので、田上さんは小松さんを抱えて家まで送り届けた。
その後、ギリギリで終電に乗ることができた田上さんは、千鳥足で自宅マンションまで向かった。幸い通行人も自転車も通らず、道の真ん中をフラフラと歩いていたが、誰とも接触しなかった。
自宅マンションの目と鼻の先まで来たところで、一旦街灯が光る電柱に寄りかかって小休止した。街灯に照らされながら呼吸を整える田上さんは、背中に何かひんやりと冷たいものが触れたように感じた。幽霊かと思うも、酔った田上さんはまるで幽霊を茶化すように手の甲を前方へ向け、うらめしやー、と言いながらまたふらふらと歩き出した。
自室のドアの前まで来た田上さんは、ポケットに手を入れ、鍵を取り出した。しかし、上手く鍵を開けられずにもたもたしていると、鍵を落としてしまった。それを拾おうと屈んだ田上さんは、さっき背中に感じた冷たさを今度は頬に感じた。
それで一度冷静になった田上さんは、鍵を拾い、ドアを開け、何かから逃げるように部屋へ駆け込んだ。施錠して、灯りを点けようと壁を這うようにスイッチを探り当てた。
カチッ、という音とともに廊下と部屋が明るくなるはずだったが、灯りは点かなかった。真っ暗なままだった。
田上さんは蛍光灯が切れていることを思い出した。半ば諦め、靴を脱ぎ、鞄をその場に置いて廊下へ上がった。いつもなら洗濯機の周りで脱ぎっ放しになっている服を滑らないように慎重に踏み進み、ゴミ箱に入りきらなかったゴミを避けて歩くところだが、この時は違った。酔っていたのと蛍光灯が点かない苛立ちで、足に当たる物は蹴り飛ばそうと、大股で歩いた。
「あれ?」
しかし、田上さんの足には何も触れなかった。足元を目を凝らして見てみたが、暗くて何も見えない。玄関を上がって5、6歩進んだところに服が散乱しているはずだったが、その辺りには何もなかった。
少しずつ、田上さんの酔いは覚めていった。
早く寝てしまおうとベッドのある方向へ身体を向けた。ベッドの近くにはローテーブルがあるはずで、それに脚をぶつけてしまわないように、田上さんは四つん這いでベッドへ向かった。時々、右手を前に出してローテーブルがないか確認しながら進んだ。
「この辺にあるはずなのに……」
誰も動かしていなければ、ベッドの近くにあるはずのローテーブルが見つからなかった。何かがおかしい。
田上さんは怖くなり、立ち上がった。一度部屋を出ようと玄関の方へ振り返った。そこでふと、携帯で足元を照らすことを思いつき、携帯をポケットから出してその照明を足元へ向けてみた。すると、自分の足と床が見え、安堵した。そして、携帯の照明を辺りに向け、ベッドを探した。
しかし、光は闇に吸い込まれ、田上さんは周りに何も発見できなかった。テレビも、机も、窓も、クローゼットも、目覚まし時計も、壁すらも見当たらなかった。そこまで広い部屋ではなく、部屋のどこにいても少しの灯りがあれば四方の壁が見えるはずだった。が、今は携帯の光に照らされた自分の身体しか、見えるものがない。右手に握った携帯を前方へ向けながら数歩進んでみたが、何も見える気がしない。
田上さんはひたすら走った。全力で疾走したが、この何もない空間を脱出するには至らなかった。
「はあはあ……どうなってんだよ、これ……」
田上さんは無我夢中で走った。自分を中心に半径1メートルも照らせていない携帯の灯りしかない状況で思いっきり走った。
すると突然、左足に何かが当たり、転倒してうつ伏せになった。お腹の辺りにさっき足に当たった何かが挟まっている。それは田上さんの鞄だった。
顔を上げてみると、薄暗いがどこかで見たことのある光景だった。携帯で目の前を照らしてみると、田上さんの自宅の玄関であることが分かった。緊張の糸が解れ、一安心した田上さんはそこでそのまま眠ってしまったらしい。





この物語はフィクションです。